【講演会:終末期から死後の世界への繋がり】雑感

 

 

9月15日慶応義塾日吉キャンパスで行われた医療法人秋爽会岡部医院 河原正典医師の講演、

【終末期から死後の世界への繋がり】の様子は、

Kさんがfasebookにその真髄を載せられている。この会場風景の写真は、そのKさんのところから拝借した。

 

 

体調不良のため、横浜山下公園にて開催されるリレーフォーライフ(RFL)参加を断念し、自宅より徒歩10分の慶応義塾日吉キャンパスにて開催の講演会を覗いてみた。会場1階部分400名の会場は、年配者を主体とした近隣の市民で満席であり、皆さんの関心の高さを示していた。医療者や宗教人も、ぱらぱら程度に参加していた。

 

河原医師の講演は、「看取りの文化の再構築」を提唱さた行動的なものであり、単に「お話し」に終わるようなものではない所に、素晴らしさがあった。

 ①病院死から脱却して、地域・社会による看取りへ移行する。

 ②地域・社会による看取りを受け入れる文化風土を醸成する。

 

河原医師は、岡部医院創設者の岡部健院長と共に、宮城県下での在宅ホスピス医療に専念して来ている。その岡部院長自身も現在末期がんの病期にあり、NHKクローズアップ現在で出演されたビデオレターで、次のように語っている。

 *多くの看取りの経験と自らの病期からの実感として、「自分の中にあるあの世の姿が

  見え、緑なす風景に写る(自然に帰る意であろうか)

 *「死」なるものは、人が、そして家族が受け止められれば、【看取り】は難しいこと

  ではない。

 *これからの緩和ケアーの姿として、「岡部村」の実践を行っている。

 

河原医師の看ている「岡部村」は、仙台南・東・西・中央とあり、自宅滞在患者250人、病院ホスピス入院患者70人であり、在宅緩和医療の活動として、一医師として、がん患者20人、良性患者30人を担当し、5~8人/日、がん患者は1回/週、良性患者は2回/月の回診を一人で車を運転してこなしている。このような現場実践の経験から見えてくるものは、在宅緩和医療の必要性の増加である。

 ①社会的事情:医療費削減による病床の減少・医療人員の削減・医療保険の適応の制限

        などにより、終末期・緩和ケアーの患者としての入院継続が至難

 ②患者の要望:自宅での治療・ケアーの希望が強い(ある調査では90%)

       *患者にとっての個人的資源(愛着ある事物・家族・隣人等の社会的資源)

        のある環境が恋しい。 

        注)しかし、嘗て存在した家族・隣人の絆は、最早存在しないと思う。

 ③看取りの課題:法律は、「死」の判断を医師の診断によるものとして義務付けている。

        しかし、看取りは 医療行為そのものではない。

       (多くの人が病院で亡くなる現実は、看取り本来の姿から乖離している)

       (青木新門氏は、<は医師が見つめ死体は葬儀屋が見つめ死者は愛する

        人が見つめ僧侶は死体死者もなるべく見ないようにして・・・>

        と看破している)

        注)看取りが、逝く人と遺族との絆を紡ぎ行く大切な場であることを

          忘れている。

        注)吉田松陰著「講孟余話」…<而して人情如何せん>

          理性では【死】が分かっていても、情の世界ではなかなか受け入れ

          難いものである。

 

医療技術の素晴らしい発展と保険制度による医療機関の利用度の激増が、死をタブーとして生への我執を増長してきた社会風土が、90%にも及ぶ病院死をもたらした。そして、河原医師が説くように、その制度的な背景が破綻し、終末期から旅立ちへの時期に身の置き所のない事態に至っている。

 

河原医師は、この現状を改善すべく、「看取りの文化の再構築」を提唱されているのである。その文化の再構築へは、

そのものは、すべての人に起こる正常な生理現象であることを、みんなが理解し納得

 してゆく必要がある。そのためには、身近な人の死を皆が視ることを勧める。

 病気そのものも、生物にとっては一つの生理現象であり、死に至る過程での現象である。

 病気即死ではない。

死への過程での身体的苦痛を伴う異常現象が医療の対象である事を理解する要がある。

 (死を阻止するのが医療の役割とは言えない)

③病院死が圧倒的に多く、看取りの経験が希少になっている現状から、多くの人(近親者

 ・地域関係者など)に、死後ではなく看取りに参加して貰うことが大切である。そして、

  を医療者の囲い込みから解放して、非医療者の手に戻す必要性がある。

④地域での看取りを支えるには、近親者の少なくなっている現状かに鑑み、介護支援・

 在宅医療と地域社会の支え(宗教者も含む)による制度の充実が求められる。

 

神奈川県内でめぐみクリニックとして、緩和ケアーに尽力している小澤竹俊医師と河原医師とのQ&Aにて、現在の緩和ケアーのあり姿の気になる点が挙げられた。

①介護士・看護師・医師の連携が月一回の連絡会でいいのであろうか。

②スピリチュアルケアーは医療者だけでやるのはいいのだろうか。

③緩和ケアーの原点は、死に至る過程への医療的心理的支援である。現状では、患者・

 家族の要望が、「生きることへの支援」に固執しすぎている感がある。

④医療者も、生きること・生かすことへ重点を置く傾向がある。

 

看取りの過程が、死に行くものへの安堵・安穏を与え、遺される近親者へのグリーフケアーの役割も果たすものである。死者を見詰める遺族であってはならないのである。

臨終での臨死体験の話、お迎え現象の現実(半分の人がそれらしき現象に遭うと言われる)も、それが死への条件ではなく、安堵を与えるものと思えばよい。

 

近代における宗教の変遷の話も、有意義なものであった(あえて省略する)

ただ、参加された宗教者からの質問を少し触れるにとどめたい。

①<「因果応報」ということがある。病も死もその結果ではないか>との質問に対し

 難しい質問であるが、答えとしては、人は皆よいことも悪いこともなしていること

 だろう。そして、善悪はそれぞれに見方によって異なる。死や病と結びつけることは

 ないだろう。

 この質問は、かなり執拗だったが、本来の仏教の思想にはなく後世に適当に便宜的に

 派生した考えを、今でも主張する宗教家がいることに驚いた。

 また、<医療者として宗教家に臨むことは何か>との質問に対し、「説教はやめて

 頂きたい」と答えていた。

 

      (表現上で、敬語使用は割愛した)

                                                                                                   (百軒)

 

 

●医療法人秋爽会岡部医院(理事長岡部健)

  http://www.soshukai.jp/

●緩和ケア Vol.22 No.3;特集「今、改めて収容的ケアを捉え直す」

  http://www1.tcn-catv.ne.jp/seikaisha/

●「お迎え」調査の記事

  http://hideki-nagaoka.net/diary/archives/5679

●死ぬ瞬間の言葉(原題:FINAL GIFTS)Maggie Callanan,Patricia Kelley

     http://books.google.co.jp/books/about/%E6%AD%BB%E3%81%AC%E7%9E%  AC%E9%96%93%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89.html?id=IsHQAAAACAAJ&redir_esc=y

 

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コメント: 2
  • #1

    河原正典 (土曜日, 22 9月 2012 01:53)

    百軒さんへ
    爽秋会 岡部医院の河原です。私の知り合いから、このブログに好意的にとりあげられているよと言われて読ませていただきました。まとまりのない講演で本当に恥ずかしいのですが、難しいテーマなのでまとまりようがないとも思っています。
    取り上げていただき有り難うございました。

  • #2

    百軒 (土曜日, 22 9月 2012 20:48)

    河原先生、コメント有難うございます。
    まさか、先生のお目に留まるとは微塵も考えずに、独断と偏見で感想を述べさせていただきました。とても素晴らしいお話しだったので、患者仲間に少しでも知ってもらいたくて、拙い筆を取ったのですが、至らぬ点などご指摘いただければ嬉しく思います。
    死生観としては、青木新門氏の「納棺夫日記」がとても平明で日常の視点から
    深淵にまで論じているのと、島薗進氏の「日本人の死生観を読む」が体系だった死生観の俯瞰を的確に示されている点で素晴らしい両著作だと思っていますが、このような死生観の的確な明示を背景に、河原先生のご提唱をみますと、まさに現場の解決法であると感動した次第でした。