お寺の試みと患者会

 

 

そもそも、患者会のホームページへ、お寺の話題を投稿するのは何事かと訝られる向きもあろう。僧侶が袈裟を身にまとい病院を訪ねたら、ひと悶着起きそうな今日この頃のご時世ではある。

 

もっともでもあると思うのは、「生老病死」を殆ど病院に委ねるようになり、僧侶にまみえるのは、葬儀での死者の霊へ引導を渡す導師のお姿となってきた背景があろう。しかしながら、僧侶となるには相当の学びと修行の重ねに加えて、

一部の様な観光寺院と異なり、お寺の維持経営に苦労をされておられる点では、医師と変わる所がない。

 

多くの人たちの日常に於いて影の薄くなった「お寺」を、人々に

「お寺に行くのが好き」になってもらえれば・・・>との思いに駆られ、

門徒衆のみならず近隣の人々に「お寺」を開放して、気軽に立ち寄れる仕組み作りに努力されている僧侶がいる。高願寺の住職さんである。

 

ご先祖の供養に心を洗うもよし、現生の迷いに読経にすがるもよし、諸々の催しに集う人々との絆に何気ない悩みを癒すもよし、はたまた四季折々の花々や寄りくる虫たち、水槽に泳ぐメダカの群れにこころを癒すもよしとされるのである。厳めしい山門などがなく、府中街道から段差もなしにふらりと入れるお寺ではある。

 

この高願寺を私のお寺(お手次)と定めて、早や数年の歳月が流れた。その間に、住職さんの夢を果たすべき場となる建物が出来上がった。柏崎の古民家を移設したもので、「至心學舎」と名付けられた。木造建築物として一見の価値があると言われる。

(関心のある方は、此方をどうぞ:http://www.kouganji.net/sisin.html

 

本堂での折々のお勤めのあと、この本格的木造建築の建屋でお参りの皆さんとお茶を頂きながらの歓談は、とても嬉しいものになっている。私には、ふと、襖の陰から亡き祖母の顔が覘いてくれそうな想いに駆られる空間でもある。

 

彼岸会・盂蘭盆会・報恩講法要などの諸行事は、どこのお寺さんでも執り行われようが、この高願寺では、観月の夕べ・ヨガ教室・ハートフル講座など、檀家のみならず近隣の方々へも門戸を開いた数々の催し物がある。お御堂(本堂)でヨガが出来るのはここだけであろう。お彼岸には、住職さん手作りの「落雁」を添えた抹茶席もある。三鷹天文台の館長さんによる「宇宙のお話し」まであったのである。

 

この高願寺の住職さんは、「お寺へ行くのが好きなんです」とみんなが言えるようなお寺にしたいと言われている。これからも、この「至心學舎」を舞台にして、どの様な企画が出てくるのか、楽しみである。この地域の人たちの心の「コミュニティーセンター」へ歩み始めている様である。

 

先日催されたハートフル講座は、ブログに掲載されている。

http://www.kouganji.net/blog/

 

2時間の講座のあと住職さんも交えたお喋りにが、一時間半にもなった。帰りがけに境内のあちらこちらに置かれた水槽を見ると、小さな金魚やメダカが泳いでいた。住職のお手になるもののようである。

 

前世紀半ばくらいまでは、お寺さんと呼んで身近な存在であり、住職さんや坊守さんは、誰もが立ち話のできるような人であり相談事を持ちこめる方であった。

 

 

なかなか癒える日のないがんなどの慢性疾患で、肉体の苦痛以上に心の苦悩を負った人たちが、わずかな人数であれおしゃべりし合う事で、何がしかの癒しを得られることがある。ピアサポートなどとも言われ、小さな身近の患者会が増えてきている。がん対策推進施策の中で、「患者サロン」の開設を進めるまでの時代になっているのである。医術だけでは対応しきれない患者の人生を支援する役目がある。

 

同じように、生老病死を背負いつつ生きている日々で、絶え間なく生じる迷いへの救いの手を求める先に、宗教があろう。仏教に限らないが、お寺さんが身近になることはうれしいことである。

 

 

                             百軒