【医師と僧侶が協働して「スピリチュアルペイン」に取り組む「西本願寺医師の会」について

いつもお詣りする高願寺の住職さんが編集に関わっておられる伝道誌「唯yui」に、「西本願寺医師の会」発足の紹介があった。今年2月に発足して、この7月現在で会員123名と言われる。すでに多くのメディアで報道されたことなので、一例として「HEALTH PRESS」の記事、医師と僧侶が協働して「スピリチュアルペイン」に取り組む「西本願寺医師の会」の試みを見て頂きたい。

発起人の田畑正久氏(佐藤第二病院院長、龍谷大学大学院教授)は次の様に述べられている。

<現在、医療技術の進歩によって病気に対する治療法は増え、私たちの平均寿命も年々伸びている。しかし、どれだけ技術が進歩しても老・病・死を避けることは出来ない。医師や患者が避けられない老・病・死をどのように受け止めるかに明確な解決方法を持っていない。この様な「医療の限界」にぶつかった時、仏教を学ぶことで「医学では知りえなかった幅の広い深い文化がある」ことを知ってもらいたい。>


医療と宗教の観点から言えば、キリスト教では、医療のホスピスの場を中心にチャプレンが患者と接する文化を創っている。(キリスト系病院に限られるうらみはあるが) 他方、仏教文化が主流のこの国にあって、ビハーラ―活動などが始められてきているとはいえ、僧衣の身が病棟を訪ねることは、奇異の目で見られると言うよりも禁止に近い感覚を、医療者のみならず患者も持っている。キリスト教も仏教も共に、スピリチュアルケアーの面で人々の生き方を支える背景を持ちながら、現今の医療現場に於ける両者の差異は大きい。

何となく『生きているうちはお医者さん、死んだらお坊さん』という漠たる思いがあるが、80歳代以上の方なら、「産婆さんの手で家で生まれ、家族に囲まれて自然に老い、病に倒れては医師の往診で救われ、時来れば家で命を終わる」のが普通であったと記憶されているでしょう。ところが今では、医師の死亡診断書がないと死んだことにすらならないのである。医療技術の進歩が、皮肉なことに生老病死を医療機関が一手に引き受けることとなっているのである。

生死について長い歴史と深い文化を持っている宗教の一つである仏教にあって、田畑医師らが主導される「西本願寺 医師の会」が、ビハーラ―活動や龍谷大学で開設される臨床宗教師プログラムと相まって、医療と仏教の連携の深まることを期待したい。

 

主題からそれるが、「唯yui」の挿絵は、今治沖の瀬戸内海に浮かぶ小島「大下島」の法珠寺の住職加藤正氏の手になるものである。住職アトリエ」をご参照ください。  (百軒)